「いてて。あーツイてない」
僕は赤く染まった頬をさすりながら歩いていた。
夕日の沈んでいく方角を見てみると紫色に染まった厚い雲の層が見える。
明日は雨かもしれない。
「……本当にツイてないな。っとと」
片手で支えている段ボール箱を落としてしまいそうになった。
バナナが一房入るだけで一杯になってしましそうなその段ボール箱は、片手で持つにはすごくバランスが悪いので、両手で持つことにした。
そもそも片手で気軽に持っていいものではないと反省する。
「さて、どうしようかな」
僕は家で激怒している父親の顔を思い出した。
令和も二年目になるというのに我が家では父による絶対君主制が敷かれていた。
ノリが古い、というわけではない。
むしろうちの父はフリーランスのITエンジニアとして日々勉強し時代の最先端を走り続けている。
ただ圧倒的に隙がなくて、優秀すぎるのだ。
息子の僕が何を言ったところですべて真正面から論破されてしまう。
おかげで僕は反抗期を迎えることもなく、父親に従順な性格に育ってしまった。
そんな父の唯一の欠点、それは頭に血がのぼるとつい手を出してしまうことだった。
「手を出すってことがもう古いんだけどね」
父親を目の前にしては絶対に言えない台詞を漏らしていると目的地である河川敷に辿り着いた。
「さて」
僕はあたりを二度三度見まわしたあと、誰もいないことを確認して段ボールをおろした。
「明日は晴れるといいな」
父の機嫌は少しは良くなっているだろうか。
家に戻ったあと、テルテル坊主をたくさん作ろうと思った。
「全然効かねーじゃん」
努力の甲斐もむなしく翌日はバケツをひっくり返したような大雨だった。
雨が降るとただでさえ憂鬱なのに、今日はその何倍も憂鬱になった。
「あっおはよう。津田くん」
学校に登校し教室に入ると山田さんから話しかけられた。
朝一番に会話をしたのが山田さんなんてすごくうれしい。
昨日から続いていた憂鬱な気分が少し紛れた。
「あのう津田くん。話があるんだけど」
「なに?」
「うん、あのね」
山田さんはずぶ濡れだった。
傘を家に忘れてきたのだろうか。
でも、雨に濡れた彼女も可愛らしかった。
好きだ。
「これ見てほしいんだ」
そういって山田さんは携帯電話の画面を見せてきた。
「手伝ってほしいことがあるんだけど」
「オッケー、分かった」
「えっ?」
その画面を見た瞬間、彼女の手伝ってほしいこと、そして、どうして山田さんがずぶ濡れになっているのか、すべて分かった。
「僕にできることはなんでもするよ。とりあえず放課後でいいかな、今じゃどうしようもできない」
「う、うん。ありがと」
やけに物分かりのいい僕の態度に戸惑いつつ山田さんは席に戻っていった。
僕も自分の席に移動し鞄をおろす。
すると後ろの席の林が話しかけてきた。
「おい、山田さんに好かれたいからって良い恰好するなよ。抜け駆けか? クラスの男子全員を敵に回すことになるぞ」
「馬鹿。そんなんじゃないんだよ」
そう、決してこれは下心ではない。
どちらかというと、これは山田さんの優しさに心打たれた結果なのだ。
やはり山田さんは素晴らしい。
男子全員から好かれるだけのことはある。
美しい外見だけでなく美しい心まで持っているとは。
大好きだ。
「あれ顔どうした? なんか腫れてるぞ」
「うるせー。親が怖くて青春できるか」
「はあ?」
林は難解な問題でも眺めるように僕の顔を見た。
次の日、僕は両側の頬を真っ赤に腫らして登校した。
「津田くんどうしたの?」
真っ先に山田さんが駆け寄ってきてくれた。
昨日の放課後の件があるからだろうが、僕の心配をしてくれているのも間違いない。
愛してる。
「なに、ちょっとオヤジと仲良く喧嘩してね」
「う、うん」
誤魔化し方がまずかったのか、山田さんは全然納得していない様子だった。
「山田さん、昨日見せてくれた画像、もう一回見せてよ」
「はい」
山田さんが教室で見せてくれた画像には、傘とその下で雨宿りしている子猫が写っていた。
傘は昨日山田さんが置いたもので、傘を置いてきた彼女は雨に打たれながら登校したのだ。
そして猫は、父の命令で僕が捨てた猫だった。
一昨日、猫嫌いの父親に殴られたあと、僕は無責任にも段ボール箱に入った猫を河川敷に置いてきたのだ。
いくら父の命令とはいえ、僕はずっとそのことを後悔していた。
「ねえ津田くん、本当に猫飼ってくれるの?」
「もちろん」
心配そうにこちらを見ている山田さんに僕は満面の笑みで答えた。
今まで父の言動に間違いはなかった。
でも、猫に関しては僕が正しい。
嫌いだからという理由で、子供に猫を捨てに行かせるのは絶対に間違っている。
「子猫のことは心配しないで。責任をもって僕が育てるから」
「ありがと」
山田さんが控えめに微笑みながら僕の手を握ってくれた。
なんて柔らかくて小さい手なのだろう。
子猫と一緒にこの手も僕が守らなければ。
結婚しよう。
心なしか、周りの雄どもから感じるプレッシャーが強まった気がした。
家に帰れば機嫌の悪い父親がいる。
学校に来れば嫉妬に狂った級友たちがいる。
子猫よりも先に僕の方が安住の地が必要なのではないか。
生命の危機を感じながら本気でそう思った。