『聞き間違い』

吾輩は犬である。
名前は『マダナイ』。
我ながら『マダナイ』とは奇妙な名前だと思うが、ご主人の敬愛する小説家の飼っていた猫の名前が『マダナイ』なのだそうだ。
猫如きと同じ名前をつけられるのはいささか面白くないが、ご主人から頂戴した名前に文句を言うつもりはない。
もしも死んでしまった暁には墓石にこの名前を刻んでもらう所存である。

吾輩のご主人は国家の安寧を守る警察官という職に就いていた。
日々、街頭で立哨し、街行く人々の安全に貢献していたのだ。
そのせいか、ご主人は犬である吾輩にも妙なことを課してきた。

「待て!」

ご主人は吾輩に餌を与えるとき、必ずこう言って十秒ほど時間を空けた。
そして、しばらく経つと満足そうに「よし!」と言うのである。
ご主人の「よし!」という合図で、ようやく吾輩は餌を食べることを許されるのだ。
もしご主人が「よし!」言わない場合、吾輩はいつまでも餌を食べることが出来ない。
子犬の頃、「よし!」と言われる前に餌に飛びついて餌を取り上げられたことがある。

ご主人によると、この「待て!」と「よし!」は警察犬の正しい礼儀なのだそうだ。
厳格なご主人の教育のおかげで、しがない飼い犬である吾輩も警察犬のように礼儀正しい犬になることが出来た。
吾輩はこの家にやってくることが出来て、本当に幸運だと考えている。

さて。
最近ちと気になることがある。
餌をもらうとき、ご主人の「待て!」「よし!」がはっきり聞こえないのだ。
ご主人が餌を吾輩の前に置いたあと、口を小さく開けてモゴモゴしているのだ。
わけが分からず吾輩がポカンとしていると、再びご主人が口をモゴモゴと動かす。
状況を考えるに、おそらくご主人は「待て!」と「よし!」を言っているのはずなのだ。
しかし、吾輩の耳はご主人の声をとらえることが出来ない。
しばらくして、ご主人がオズオズと餌を吾輩の口へ持ってくるので、ああやはり先ほどのモゴモゴは「待て!」と「よし!」だったのだなと思い餌を食べ始める。

ご主人は一人の時よく「人は年を取るとだめだ」と呟いていたが、それは犬も同じだ。
年を取ることで吾輩は、ご主人の声が聞こえづらくなってしまった。

ある日、餌の時間になってもご主人が出てこなかった。
吾輩は屋敷の方へ耳を澄ましてみたが、ご主人の足音は全く聞こえない。
いよいよ吾輩の耳はダメになったのかと不安に思ったが、何やら遠くの方で甲高い音が鳴っているのが聞こえたので、まだ大丈夫だと一安心した。

やがて、その甲高い音は徐々に屋敷の方へ近づきそれに比例して音の大きさを増していった。
あまりの五月蠅さに吾輩が耐え切れなくなって犬小屋の中に頭をうずめていると、屋敷のすぐ近くでその音はパタリと止んだ。
そして、ご主人が昔乗っていた車と同じように赤い灯りを点灯させる白い車から、これまた白い装束に身を包んだ人たちがえらい剣幕で降りてきた。
その人たちは屋敷の中に入っていくと、やがて銀色の台車に橙色の包みを乗せて、やってきたときと同じように騒々しい音を立てながら屋敷から去っていた。
あとに残されたのは耳鳴りがするほどの静寂と、鎖につながれた吾輩だけだった。

どうしてご主人はあんなに騒がしい集団がやってきたの出てこないのだろう。
いや、そもそもなぜ餌の時間を過ぎているのに吾輩に餌をくれないのだろう。
お天道様が真上で輝き西へ傾き始めても、ご主人は屋敷から姿を現さなかった。

ワオーン!

私は腹の底から声を出し吠えてみた。
しかし、屋敷からは何の反応もない。
まるで、神様のいなくなった社のように寒々としている。
吾輩がこの屋敷へやってきてから、こんなことは今まで一度もなかった。

ワオーン!

吾輩はもう一度吠えてみた。
ご主人、吾輩はここにいるぞ。
今日はまだ、餌をもらっていないぞ。

ワオーン!

ご主人、ご主人。
どうした、早く出てきてくれ。

ワオーン!

ご主人。
吾輩は、寂しいぞ。

投稿者: ちくわさん(三日坊主)

ちくわとして生を受け幾星霜。 そろそろ練り物でいることにも飽きたので別のモノに生まれ変わりたいです。

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